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第七十一話 『近づく夢、離れる心』 ◆珠希

last update Veröffentlichungsdatum: 29.10.2026 20:37:20

 昼休みが近づいたころ、雪臣から連絡が来た。

 ――仕事について少し話したい。昼、時間は取れるか。

 珠希は画面を見つめた。昨夜、玄関で差し出した手を、彼は取らなかった。自分で家に上がれるのだから、手を借りる必要はなかったのだろう。そう思いながらも、引っ込めた指先の行き場がなかったことを覚えている。

 このところ、二人の距離が少しずつ変わってきているような気がしてならなかった。二人は契約結婚で、雪臣に特別な気持ちがないことは理解している。それでも、婚姻届を出した日のことも、夜のソファで何気なく話す時間も、いつしか珠希にとって宝物のような記憶に変わっていった。

 だからこそ、小さな変化が不安につながる。

「雪臣くん……」

 けれど今日は、雪臣のほうから声をかけてくれた。返信しようとすると、もう一通届く。都合が悪ければ別の日でも構わない、とあった。珠希は慌てて『大丈夫』と返した。行き先は、以前二人で食事をした洋食屋に決まった。

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 店に入ると、ケチャップと炒めた玉ねぎの匂
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  • 氷室雪臣の環愛―契約結婚のはずですが、孤高の御曹司はマリッジリングを外さない―   第七十二話 『喧嘩の理由』 ◆珠希

     休日の朝。雪臣が少し咳をしていた。 「雪臣くん、風邪かな」 「……少し、だるい」 「熱、測ってみる?」  体温計の数字は、三十七度を少し超えていた。朝食の量もいつもより少なく、食べ終えたあとも、彼はソファに背を預けたままだった。  三板が食材の買い出しに出かけると、珠希は台所で湯を沸かした。 「温かいの、飲めそう?」 「ああ。申し訳ない」  差し出した青いマグカップを、雪臣が両手で受け取る。いつもよりゆっくりと飲む彼を見ながら、珠希も隣に腰を下ろした。今日もニットの袖口から、左手のマリッジリングが覗いている。  珠希も自分のマグカップに両手を添えた。こんなふうに、何もせず一緒に過ごせるだけで、心地よいと思ってしまう。  けれど九月になれば、そんな時間も終わってしまうのだ。  だからこそ、今、雪臣の隣にいられるこの瞬間を大切にしたい。  今日は二人とも家にいる。平日のように、夜遅く帰ってきた彼とほんの少し顔を合わせるだけの日とは違う。具合が悪いのは心配だが、そばにいて、必要なものを用意するくらいはできる。 「何かあったら言って。今日はゆっくりしてようね」  雪臣はカップから顔を上げ、こくりと頷いた。それを見て、珠希は微笑んだ。昨日の洋食屋からの帰り道以来、また少し話しかけにくくなっていた。けれど今朝は、雪臣とときどき目が合った。  膝掛けを渡すと、雪臣はまた「申し訳ない」と言いながら、それを広げた。  雪臣のマグカップが空になれば受け取り、窓から日が差せば、眩しくないかと尋ねる。雪臣が咳をするたびに、珠希は読んでいた本から顔を上げた。 「タオルも、ここに置いておくね」 「……ああ」  彼の顔を覗き込む。視線が交わると、雪臣は何か言いかけたようだったが、そのまま黙ってタオルへ目を移した。まだつらいのだろうか……。もう少し早く、体調の変化に気づいてあげられたらよかった。  やがて、雪臣が膝掛けを畳んだ。 「もう、部屋で休む」 「うん。横になったほうがいいよ」  珠希は立ち上がり、膝掛けを受け取った。雪臣も杖をついて腰を上げる。彼が右足を踏

  • 氷室雪臣の環愛―契約結婚のはずですが、孤高の御曹司はマリッジリングを外さない―   第七十一話 『近づく夢、離れる心』 ◆珠希

     昼休みが近づいたころ、雪臣から連絡が来た。  ――仕事について少し話したい。昼、時間は取れるか。  珠希は画面を見つめた。昨夜、玄関で差し出した手を、彼は取らなかった。自分で家に上がれるのだから、手を借りる必要はなかったのだろう。そう思いながらも、引っ込めた指先の行き場がなかったことを覚えている。  このところ、二人の距離が少しずつ変わってきているような気がしてならなかった。二人は契約結婚で、雪臣に特別な気持ちがないことは理解している。それでも、婚姻届を出した日のことも、夜のソファで何気なく話す時間も、いつしか珠希にとって宝物のような記憶に変わっていった。  だからこそ、小さな変化が不安につながる。 「雪臣くん……」  けれど今日は、雪臣のほうから声をかけてくれた。返信しようとすると、もう一通届く。都合が悪ければ別の日でも構わない、とあった。珠希は慌てて『大丈夫』と返した。行き先は、以前二人で食事をした洋食屋に決まった。 +   +   +  店に入ると、ケチャップと炒めた玉ねぎの匂いがした。窓際の席へ向かい合って座る。雪臣はメニューを開いたまま、なかなか何も言わなかった。 「私、またナポリタンにしようかな。雪臣くんは?」 「……ああ。同じものを」  そういえば、前に来たときも、きっかけは雪臣が急にナポリタンを食べたいと言い出したからだ。思い出して笑うと、彼が顔を上げる。 「また一緒に来られて、良かった」  珠希の声は、後ろに流れるチャイコフスキーの花のワルツに溶けるように消えた。  そのとき、雪臣の唇がわずかに動いた。けれど声にはならず、やがて「ああ」と答えると、メニューへ視線を戻した。注文が済んでからも、雪臣はしばらくメニューを片づけず、ページをめくっては眺めていた。  珠希は水を一口だけ飲んだ。仕事の話だとわかっていても、忙しい彼が時間を作ってくれたことが嬉しかった。 「雪臣くん。それで、仕事の話って……」 「ああ。この前の手帳、持っているか」 「あ、うん。持ってるよ」  鞄から手帳を取って差し出すと、雪臣がようやくメニューを脇

  • 氷室雪臣の環愛―契約結婚のはずですが、孤高の御曹司はマリッジリングを外さない―   第七十話 『触れられない手』 ◆雪臣

     珠希がまだ何か言いかけていたことに気づいていた。それでも、扉を閉めてしまった。  もう遅い。休んでほしかったのは本当だ。けれど、今の態度では、追い出したようなものだろう。もう一度扉を開けて声をかけようかとも考えたが、やはりいまは珠希と顔を合わせるのを躊躇った。  浴室には、湯気が薄く漂っている。洗い場の中央に、背もたれと肘掛けのついた椅子が置かれていた。  目を伏せ、そっとマリッジリングを外した。失くさないように、入浴中は洗面台の隅にある小皿で保管する。ちりん、と陶器の音が小さく鳴った。  ……会合の途中から、家に帰りたくて仕方がなかった。珠希に会いたかったのだ。  時計を確かめながら、彼女はもう眠っているだろうかと考えていた。  帰りのタクシーで連絡したときに、彼女がまだ起きていると分かって、少しでも話せることを期待した。  帰宅してすぐに、珠希は玄関まで出てきて、コートを受け取り、水まで用意してくれた。そのひとつひとつが嬉しかった。  それなのに、珠希に準備されていたこのシャワーチェアを見たとき、礼を言うことさえできなかった。  何も言えずに扉を閉め、脱衣所にひとり閉じこもったのだ。  雪臣は服を脱ぎ、浴室へ入って椅子に腰を下ろした。肘掛けに手を添え、右足の位置を整える。この椅子には、これまでも助けられてきたし、これがなければ自分で体を洗うことすらできないのは事実だ。  シャワーの音を聞くうちに、病室の白い天井を思い出していた。 ◇   ◇   ◇  ……まだ、小学校にすら通っていなかった、ずっと前のことだ。  氷室メディカルセンターのベッドの脇に置いていた画用紙を取ろうとして、上体を起こした。あと少し手を伸ばせば届く。その前に、様子を見に来ていた看護師が、画用紙を持ち上げた。 『これ? 取ってあげるね』  胸元へ置かれた画用紙を、両手で受け取った。 『これくらい自分で取れるよ』と言おうとしても、口から出てくる言葉は、いつも『ごめんなさい』だった。手間をかけさせてごめんなさい。長い入院生活の中、いつしかそう思うようになっていた。そんな雪臣を誰も責めなかったし、看護師は笑って、枕の位置まで

  • 氷室雪臣の環愛―契約結婚のはずですが、孤高の御曹司はマリッジリングを外さない―   第六十九話 『二人を隔てる壁』 ◆珠希

    「HIMUROの商品として作りたいのか」  珠希は手帳を押さえていた指を止めた。 「そこまでは、まだ考えてなかった。今日は、雪臣くんに聞いてほしかっただけなんだ」  隣に座る雪臣は、手帳から目を逸らさなかった。手帳のペンダントへ、珠希はもう一度目を落とす。この形が商品になって、一階の店に並ぶ。誰かが鏡の前で身につけ、笑っている。そこまで想像すると、描き足したい線がまた浮かんだ。 「でも……うん。HIMUROで作ってみたい思いはあるよ。このペンダントだけじゃなくて、普段の服に合わせて、自分のために選べるものを、もっといろいろ」  口にしながら、珠希は右手に嵌めたビーズリングを指先で回した。 「いつか、そういうジュエリーを届けるブランドにできたらって……まだ、何もまとまってないけど」  しばらく図案を見ていた雪臣が、顔を上げた。 「……その先も、聞かせてほしい」 「その先?」 「タマが、どんなものを作りたいのか」  珠希は頷いた。 「まずは環愛をちゃんと進める。そのうえで、提案できるものに育てていきたい」 「分かった」  雪臣の手が、テーブルから離れた。  雪臣に話す前より、作ってみたい気持ちが強くなっていた。まとまらない考えでも向き合ってくれて、仕事としての問いまで返してくれる人が、隣にいる。 「聞いてくれて、ありがとう」  雪臣が少し顔を背ける。珠希は、開いたままの手帳をなかなか閉じられなかった。 +   +   +  それから数日、珠希は担当業務を進めながら、手帳に描いたジュエリーについても、ときどき考えを巡らせていた。一方、雪臣は周年記念の準備が本格化し、年始の挨拶や会合も重なって、再び帰宅が遅くなっていた。  ……今夜は、秋夫――雪臣の父で、氷室百貨店の社長も参加する新年会に、彼も出席すると聞いていた。あず実もその席に参加するのか気になったが、聞くことはできなかった。  三板が片づけを終えて帰ったあと、珠希は一人で本を読んでいた。同じ行を二度読んだところで、スマートフォンが震える。  ――今、タクシーで帰っている。  時刻は二十

  • 氷室雪臣の環愛―契約結婚のはずですが、孤高の御曹司はマリッジリングを外さない―    第六十八話 『雪臣の問い』 ◆珠希

     新年初めての出勤。年末年始は毎日そばにいた雪臣だったが、会社ではやはり顔を合わせる機会も少ない。一度、総務の前ですれ違ったときも、挨拶を交わした直後、別の社員に呼び止められていた。去っていく背中を見送り、デザイン部の自分の席へ戻る。  珠希は、あず実から届いていた『環愛』の冊子の修正データを開いた。雪臣と二人で作った指輪から生まれたものが、今度は誰かの手へ渡っていく――文章からもその思いが滲み出ていて、珠希は思わず左手のマリッジリングに指先で触れた。最後まで修正内容を確かめ、確認済みの印をつけた。  昼休みに入る前、珠希は一階のフラッグシップショップへ下りた。HIMUROが一丸となって生み出してきた商品が、今年も一年、この場所から顧客のもとへ羽ばたいていく。そう思うと、新年最初の出勤日にどうしても店内を見ておきたくなった。  新年の飾りつけをした店内で、女性客がネックレスを試していた。女性が鏡を覗いた途端、その顔がほころぶ。なんだか自分まで嬉しくなるようだった。  女性はしばらく迷ったあと、商品を返した。今日は買わずに帰るらしい。理由は分からない。それでも、鏡の前の笑顔は珠希の心に残っていた。  母と作ったビーズリングを、何度も眺めていた自分を思い出す。特別な日でなくても、いつもの服にひとつ添えるだけで、少し嬉しくなる。そして、その思いはいつしか、ジュエリーデザイナーになって多くの人に同じ気持ちを届けたいという夢に変わった。  近くのカフェで昼食をとりながら、珠希は手帳に小さなペンダントを描いていた。  色石がもつ色そのものを楽しめる形。ダイヤモンドを小さくして価格を抑えるのとは、少し違うもの。ただ、珠希の仕事のデスクには『環愛』のデータがある。『環愛』は今の自分が担当している、大切なシリーズだ。手帳を閉じ、コーヒーを啜る。  そのあと、仕事に戻ってからもときどき考えていた。雪臣なら、さっき手帳に描きかけたペンダントを見て、何と言うだろう。 +   +   +  帰宅すると、台所から出汁の香りがした。 「おかえりなさいませ。珠希さま。もう少々で、お食事をお出しできますよ」 「ありがとうございます、三板さん」  珍しく先

  • 氷室雪臣の環愛―契約結婚のはずですが、孤高の御曹司はマリッジリングを外さない―   第六十七話 『妻として』 ◆珠希

     大晦日。午前中に母との今年最後の面会を済ませ、午後は本邸へ顔を出し、年内に世話になった三板にも挨拶をした。すべての用事を終えた夜、珠希と雪臣は自宅で過ごしていた。 珠希は、食べ終えた年越しそばの器を重ね、台所へ運んだ。後ろから雪臣が箸を揃え、流しのそばに置く。「もうすぐ年が変わるね」「そうだな」 珠希は窓の外を見た。辺りは静かで、家の中には二人分の生活音だけが控えめに響いている。 ……大晦日に、こうして雪臣と年を越すとは思わなかった。去年も、その前の年も、今頃はひたすら直人と直恵の顔色をうかがい、下働きのように振る舞うことで精いっぱいだった。いつしか家のことを終えてから出る初詣だけが、年末年始の、自分のための時間になっていた。 けれど、ここではもうすぐ日付が変わるというのに、特別なことをしなくても穏やかでいられる。ひどく懐かしい感覚がした。「私、年が明けたばかりの空気を吸うのが好きなんだ。毎年、その時間に初詣に行ってて」 言ってから、雪臣を振り返った。余計なことを口にしたかもしれない。年明け直後の境内は混む。杖を使う彼には歩きにくいはずだ。「でも、混んでない時間がいいかな」 珠希が慌てて取り繕うと、雪臣は少しだけ口を尖らせ、リビングへ向かって歩いていった。背を向けたまま、雪臣が言う。「……いや。僕もいつも、年が明けてすぐに行っている」「そうなの? じゃあ、一緒に行こう」 雪臣はしばらく答えなかったが、ソファに腰を下ろすと「ああ」と一言こぼした。珠希は、彼の返事が少し遅れたことを特に気に留めなかった。+   +   + 新しい年を迎えて家を出ると、痛みを覚えるほど冷え切った空気が頬に触れた。珠希は雪臣からもらったマフラーを首元に巻き直す。 吐く息が白くなる。隣を歩く雪臣も、いつもより襟を高くしていた。けれど珠希が見上げると、雪臣も同じ空を確かめるように顔を上げた。 毎年好きだった空気を、今年は彼と分け合っている。そう思うと、胸が高鳴った。 近くの神社へ続く道には、同じ時間に参拝しようとする人た

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